先月1月9日に、なんと40年ぶりに「白カラス」というフリーインプロヴィゼイションのトリオのライブを江古田BUDDYでやりました。
僕が東京に出て来て最初に参加したバンドなんだけど、サックス、笛の山本公成氏と、ピアノのウォンウィンツァン氏(当時は江夏健二という日本名で活動してたとのトリオで、二人とも僕より少しだけ先輩で、でも誰がリーダーという訳ではない三人バンドでした。今となってはどうやって三人が出会ったのかよく覚えていないんだけど、山本さんとは1970年前後の頃、当時の新宿ピットイン(最初の場所は紀伊国屋の裏の並びにあって、その後僕が全く行かなくなってから真向かいに移って、またまた新宿二丁目のはずれのほうに移ったのかな、その間に六本木ピットインも出来て、無くなって)その最初の新宿ピットインの二階にニュージャズホールというのがあって、フリージャズとか前衛的な映像作品の上映会とか詩とジャズの会とかをやっているところだったんだけども、そこで、'69年頃にベースの吉沢元治さんと山本さんのフルートの鬼気迫るデュオの演奏を観て、この人と演ってみたいと思って声をかけたのが始まりだから、ウォンさんは彼に紹介されたんだよな。そうそう、ちょうど彼らが二人でやろうとしてたちょうどそのタイミングで、分けわかんない若造だけど試しに一度やってみようかってんで入れてもらったんだと思う。それ以前の1967〜8年の頃、まだ仙台で高校生だった時に、葛西さんという仙台の素晴らしいジャズピアニストと、その後益子で陶芸家になる、僕と同じ中学校だった女の子と三人で上京して、そのニュージャズホールに、佐藤允彦さんや今田勝さんのピアノソロを観に行ったり、厚生年金会館で三大ジャズドラマーコンサートでジャック ディジョネットとベニー マウピンのメチャかっこいいデュオを観たりしたんだった。そんで高校を卒業した年にスキー部のでっかいキスリングリュックに毎回、本とかレコードを詰め込んで、田舎の実家から2往復半のヒッチハイクで家出を決行、新高円寺の2畳半のアパート4千500円也に暮らす身となったんだった。いろいろ思い出して来ちゃった、アハハ。色々アルバイトしたんだけど、ニュージャズホールのプロデューサーだった副島輝人さんにかけ合って、お掃除なんかの雑用をやるバイトにも雇ってもらって、ニュージャズホールのみならず、一階のピットインもただで出入りできるようになったんだっけ。そんなときに山本さんとは邂逅した訳でした。
脱線したついでに思い出すと、二階のホールったってえらい狭くて天井も低いライブスペースなんだけど、一階のピットインの向かって左脇に狭い階段があって登りきるとロビーで、左に受付のカウンターがあって小さな事務所スペース、その向かい側の扉の中は1、2階共用の楽器置き場、そして階段の正面の扉の中がライブスペースで右広がりの正面がステージ、っていっても客席とひとつながりのフラットスペースなんだけど、20人も入ったら満杯状態だったかなあ、それでステージの下手のところにまた扉があってね、そこを入ると真っ暗な通路があって、女の子といい感じになってそこまで首尾よくご案内できたら.......って言う感じだったんだけど、その通路は表の喫茶店に抜けられる訳。で、そのまま一階に下りると新宿三丁目の大通りに出て人ごみにまぎれてどっかに消えられるという流れなんだよね。だいぶ脱線しました、すいません。
 そんな時代から40年後に3人寄り集まってライブということになったんだけど、いやあ本当に面白かったんですよこれが。ちょうど2〜3週間前から生ドラムセットの面白さにこれもまた3~40年ぶりに目覚めてしまって家で叩き始めてたんだけども、3人共その後みんな別々の道を歩んで来て、それぞれの世界を作って来た訳でしょう、山本さんとウォンさん達は'90年代後半ぐらいに再会して、共演のアルバムも2枚出てるし、ライブもやったりしてたみたいで、僕も山本さんからその頃に連絡がきて知っていたんだけどね。自分の個人的な状況もあって、まだ機が熟してなかったって言うのかなあ。
それで今回きっかけはね、2年前に横笛の赤尾三千子さんのバルト三国ツアーにゲスト参加したときにP.A.オペレーター兼照明兼舞台監督の大活躍だった、金森さんという人と、メンバーで喫煙者が二人だけなもんで同じ部屋になって意気投合しまして、毎晩明け方まで話しが止まんない修学旅行の高校生状態だったんですけど、彼はオアシスというP.A.会社とプラスエアーという素晴らしいレコーディングスタジオの社長さんなんだけども、偶然にも、僕が2年半ほど前に引っ越してきて、古い木造の油だらけでぼろぼろだった工場を一人で改装して作ったスタジオ兼自宅のすぐ近所に、彼のスタジオも倉庫も自宅もアトリエも点在してて、でっかいリヤープロジェクションのTVをいただいちゃったり、いろいろとすっかりお世話になっている人なんですね。そいで、彼が大阪のほうで岡野弘幹君というミュージシャンのP.A.の仕事をしたら僕の話が出たってんで、家に来たときに電話してくれて。山本さんは長いこと岡野君と一緒に「風の楽団」ていうのをやってるんで、山本さんにやっと連絡できたという訳です。それで今度は山本さんがウォンさんに連絡ってな具合で廻って、僕がウォンさんに久しぶりに(10数年ぶりかな)電話したんですよね。それが去年の夏頃だったかな。そしたら12月にウォンさんから「白カラス」の3人でフリーのライブをやりたいんだけど、ってことでやろうやろうってなった訳でした。
 興味のある方はウォンさんのホームページに入ってみてください。1stステージの映像は無料ダウンロードも出来ます。
 なにより嬉しかったのは、3人とも現在形で前を向いて、大きな可能性を感じながら、これからも音楽できるんだということを確信できたことです。一週間ほどして山本さんから電話がきて、これは本当に奇跡だと思うといっていました。僕も音楽やっててよかったあと思える今日この頃です。
 

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ブログ事始め

yaskaz_blog_1.JPG
皆さん初めまして、多くの人々のすなるブログというもの我もせんとて、ってな感じでブログってのをやってみることになりました。
今まで公にコミットする形で言葉で何かを伝えるってゆうのは頼まれた雑誌の原稿とか、自分や他のアーティストのプログラムに書いたりとか、そうゆうのを昔ちょっとやったぐらいで、極力避けて来たんだけど、お膳立てしてくれるスタッフの「何でも好きなことを好きなように気楽に書いてください、書けるときでいいですから。」というのに誘いだされてというか、還暦を目前にして、なんかいいたいことがいっぱいあるような気がして来てブログってのがなんなのかよくわかんないままに、もういいたい放題、誤解を恐れずに書いちゃおうっていう感じです。

第一回目はちょうど今やってる山海塾の日本公演新作「からみ」の東京初演の初日と、前作「とばり」の初日を見て来たので、そのへんからいこうかな。

舞踏との関わりは時代を遡って、1972年の土方巽四季の為の二十七晩』、当時の新宿文化センターという映画館で27日間、毎晩映画の終わった後に舞台を作って、たしか5つの作品だったと思うけど、2階客席の両側にあった張り出し席の上手のほうにはまだご健在だった津軽三味線の名手、木田林松栄さんが、そして下手に<音響箱>と土方さんが名付けた御簾で囲ったスペースに、ステンレスの板とかいくつかの楽器というか音の出るものをセットして、主に土方さんのソロの場面で生演奏をしたのが最初です。舞踏の創始者というか、もうその頃から伝説になってたような土方さんとのことを、衝撃的だった出会いから書こうと思うとそれだけで一冊本が書けそうな気がしちゃうから、また別の機会にするけど、二十歳そこそこの自分が毎晩、ほとんどステンレスの板一枚だけから生み出される響きで稀代の舞踏家と対峙した経験はその後の自分の在り方にとんでもない影響をおよぼしたことだけは言っておきます。

音楽というか音の響きというものに対しての彼の耳というか感性の鋭さは半端じゃなくて、何度か、何かとても深いところで、大げさにいうとほとんど宇宙的なスケールで交響している感じっていうんだろうか、絶妙で鮮烈な至福の瞬間があったのを昨日のことのように覚えています。
'73年の西武劇場こけら落とし公演「静かな家」の後、'74年の9月から一人で、初めての海外へほとんど何の情報も持たずに、インドネシアのジャワからバリ島へ、結果として4ヶ月半にわたる、度重なる偶然と驚きに満ちた不思議な旅に出るんだけど、そのときは、生前の土方さんとの仕事がそれっきりになるなんて夢にも思わなかったわけです。
11年後に、バリ島との関わりの一区切りとなった、'85年プリアタン村歌舞団日本ツアー、国立劇場公演の最終日に、芦川さんと二人で観に来てくれて、帰り際に「佐藤君、これは君がやったのかい?」「いえ、コーディネイトしただけです、これが片付いたら伺いたいと思います。」ということで、年末に後始末の為にバリ島に入って、年を越して帰国、三日目に新聞の死亡広告を見て愕然としました。これからあらためて土方さんとの仕事に本格的に参入しようと心に決めて帰って来た矢先だったから、本当に残念でなりませんでした。2003年に「夏の嵐」で音楽を担当したんだけども、やっぱり、まだご健在なうちに、もう一度ご一緒したかったというのが本音です。晩年に、アスベスト館という彼のスタジオにお邪魔したとき、「佐藤、人ってのは残念ながら死なないんだよな。」と、ふともらした謎のような言葉を思い出します。

 で、山海塾にもどるけど。実をいうとね、前作「とばり」を二年前に日本初演の初日で観たときも今回の新作「からみ」の初演も面白くなかったんだよね。そのまた二年前の作品「とき」がすごくよかったから友達をいっぱい連れていったんだけど、みんなでがっかりしてた訳です。

ところがね、今回再演の「とばり」を昨日(2月3日)観て来たんだけども、素晴らしかった訳。終わってから楽屋裏にリーダーの天児さんにお祝いをいいに行って話したんだけど、振り付けから照明から何から何まで変えてないっていう訳よ、僕には照明が前のときより少し暗めになったような気がしてたんだけど、それも変えてないっていう訳。前回も今回も吉田さんという友人と一緒に観たんだけども、彼も僕ももう全く違う作品を観てるような気がしてたんだけどね、同じ劇場でおんなじシチュエイションでこの違いは何なんだろうってことになる訳です。そしたら山海塾の音楽を長年やってるもう一人のミュージシャンの吉川君が新作の「からみ」も楽日(最後の日)はすごくよかったっていうんだよね。「とばり」はつい最近までアメリカツアーで踊り込んできたらしい。

やっぱりパフォーマンスそのものの出来不出来、つまりは踊りそのものの力によって、全く同じ作品が素晴らしくもなりまたつまらないものにもなってしまうという、まあ当たり前の話だけども、あらためてダンスと言うものの生ものさ加減を思い知らされた訳です。

いくら入念に振り付けされ演出されていても一つ一つの舞台の一回性が決定的なものである踊りというのは本当に厳しいもんだなあと。それを営々と世界を舞台に続けて来て今日の評価を獲得して来た山海塾と天児(あまがつ)さんにあらためて敬意を表したいし、音楽をやっている自分に問いかけてくる様々な位相の問題に向き合う為の勇気をもらえたことに感謝したいと思います。

「とき」という作品から13年ぶりに山海塾とのコラボレーションを再開したんだけど、とっても心配してたからすごく嬉しくて、今日はまだ見てない友人達に電話してお勧めしてました。

PROFILE

YAS-KAZ

60年代後半から坂田明、小杉武久、故阿部薫ら とセッションを始める。土方巽舞踏団や「山海塾」の為の音楽作曲、ウェインショーターとの共演等で成功を収め、国内外の音楽フェスティバ ル等に多数出演、国際的に高い評価を得る。
ジャズや現代音楽、世界中の民族音楽、生物の音声等の探求を通じて、広範なテリトリーを脱ジャ ンルし続ける、サウンドクリエイター。
壮大で幻想的な独自の音楽は、各界の注目を浴びている。
'01~ベネチアビエンナーレ招待公演から ヨーロッパツアー。'06年20枚目のアルバム "兎に角" リリース。'07 草月流80周年記念イベント「創流祭」(両国国技館 )の音楽監督。イタリア・パンタレリア島での国際的なコラボレイションプロジェクト"アルカディア"に招待参加。'08 再び"アルカディア・プロジェク ト"に招待参加。パリで江戸操り人形とのコラボレイション作品"牡丹燈籠"の音楽監督として、作編曲と演奏。 '09 2月、森山開次の 新作"狂ひそうろふ"の新国立劇場公演の音楽監督、作曲演奏。公演に併せて21枚目のアルバム"狂ひそうろふ"を リリース。バルト三国 ツアー、赤尾三千子の"蓮曼荼羅"に特別ゲスト出演。日メコン交流年2009記念「森山開次ソロダンス」ベトナム公演(サイゴンオペラハ ウスにて)の音楽監督、作曲ならびに演奏。

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